古代史最大の謎を読み解く 天皇と鬼 関 裕二
2014年11月13日 第一版 悟空出版
実は、私は現在こそ千葉在住ですが、元々の生まれは奈良県です。
奈良県で18歳まで、鹿とたわむれながら(!)暮らしていました。
鹿とはいろいろな思い出があり、実はちょっと苦手なのです。それはさておき・・・
家の近くには当然お寺が多く、土塀があり、いつも鐘の音を聞いて過ごしていました。
そんな環境で育ったせいか、日本の神社仏閣、日本史が大好きなのです。
古代史はまさに奈良が舞台。近所に住んでいたため、非常にイメージがしやすいのです。
ただ、この古代という時代はなにぶんにも資料が少なすぎます。
中国の歴史書にちらっとしか出てこなかったり、数が少なかったり・・・
それに古代といえば、一番力を持っていたのは藤原氏。天皇は藤原氏の操り人形にすぎませんでした。
その藤原氏が編纂した「日本書紀」は藤原氏の都合のいいように書かれているために、事実がわからず、現代の私たちはあれこれ想像するしかありません。
そのためでしょうか、ほかの時代の歴史書に比べると、どうしても古代のものは信憑性が薄いように感じてしまうのです。
書かれていたことで一つ面白いと思ったのは(これは事実のようです)、広隆寺にある聖徳太子三十三歳像は、歴代天皇から即位式の装束を贈り続けられており、もちろん平成天皇も送っていらっしゃるとのこと。
今の令和天皇もきっと送られるのでしょう。
これはまったく理由は不明とのこと。もともと聖徳太子についてはよくわかっていないことが多く、実在したかどうかも怪しいそうですが、これはどういうことなのでしょう。
天皇家は、聖徳太子の呪いを恐れているということなのでしょうか。
なぜ、即位式の装束?聖徳太子は天皇になりたくてもなれなかったということ?
聖徳太子はそれほどまでに天皇家を呪わなければならない何か大きな事件があったということなのでしょうか。
様々な悲劇的な事情から保元の乱の敗者となり、隠岐へ流刑された崇徳天皇は、戦死者の供養と反省の証として、自分の血で三年の歳月をかけて五部大乗経を写経し(もうその時点で怖い・・・)、それを朝廷に送りました。
血の写経を送り付けられた朝廷は、「呪いがかかっている」と思い、これを送り返してしまいます。
崇徳天皇には申し訳ないですが、ちょっとその気持ちわかる・・・。
しかし、命を削るようにして書いた写経を送り返された崇徳天皇は激怒。舌を噛み切り、その血で国を呪うことをまた写経に書いて、憤死します。
怖いよう、怖いよう・・・。
でも本当に気の毒です。
しかし、ここからがすごい。
後白河法皇や、摂関家の近親者も相次いて亡くなり、平安京の三分の一が大火によって焼失、次から次へと都に災いが起こりまくります。
こうして、崇徳天皇の呪いを意識した朝廷は、なんとかその御霊を鎮めようとしますが、時すでに遅し。ついに、武士によって朝廷は政治の実権を奪われるまでに至ります。
朝廷は以後800年以上もの間、崇徳天皇の呪いを恐れ続けてきました。
・・・と、これが代表的な天皇家の呪いですが、聖徳太子にもそんな逸話があるのでしょうか。怖いです。
それにしても、古代の事って本当に知りたいですよね。中国かどこかから、詳しく書かれた資料でも発見されないかな。
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